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エッセイ

主任講師 通訳エッセイ

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プロフィール

サンフランシスコ州立大学・同大学院 (行動科学・PhD)

サセックス大学 (UK) イギリス地域研究

アメリカ在住、在学中は、多くのアメリカ企業で会議・交渉・商談などの高度なビジネス通訳を務める。同時通訳技術には高い評価がある。専門の医学の知識が活かせる医学分野の通訳では、研究者から直接依頼があるほど、信頼度の高い通訳技能を持つ。大学や通訳養成校の講師を経て、現在、通訳・翻訳サービス専門会社、(株) イクサス・インターナショナル代表、イクサス通訳スクール主任講師。大学講師。

 

通訳者の作り方

大江健三郎さんの著書に『私という小説家の作り方』という自伝的なエッセーがある。大学生時代に芥川賞作家となった大江さんが自分を小説家として作り上げてきたプロセスが綴られている。作家になる、医者になる、シェフになる、というが、人は自然にその道のプロになれるわけではない。その道のりには「なりたいもの」に近づくための意識的な努力のようなものが要る。「努力」と書くと何やら重苦しい感じがするが、ほんとうに自分がなりたいものを目指して歩む者にとっては、そうでない人には努力と思えることも、苦にはならないものだ。その道が好きだから歩んでいるにすぎない。

私が初めて通訳の真似事をしたのは、まだアメリカの大学で学んでいる頃だった。日本語と英語が話せるというだけで、通訳を頼まれることがあった。今から思えば、実に汗顔のことだらけだった。通訳法などまったく知らなかったから、話し手の発言が、日本語でも英語でも、長くなると、私なりに要約のようなことをしていた。場数を踏むごとに要約の仕方は上手になっていった。長い講演の通訳の時などは、私の要約は依頼者に喜ばれることもあった。

アメリカで学位を取って帰国してから、私は本格的に通訳の訓練を受けた。その後に通訳を生業とするようになってから、自分はこの道が好きだから歩んできたのだということにあらためて気づいた。私は時間をかけてこつこつと自分を通訳者に作り上げた。「私という通訳者の作り方」という本が書けそうだ。本を書く代わりに、私は通訳スクールを作った。通訳を学びたい、通訳の訓練を受けたいという人たちの役に立てれば、これにまさる幸いはない。スクールでは、通訳の授業の合間に、「私という通訳者の作り方」をひとりの通訳者の経験として受講生に話している。私の成功からも失敗からも学んでもらいたい。人は人に教えられ人から学ぶ。私もそうして自分という通訳者を作ってきた。

 

なぜプロ通訳者に女性が多いのか?

国際会議でヘッドフォンから流れてくる通訳者の声は、ほとんど女性の声。発言者の大方が男性であるのと対照的である。プロとして仕事をしている通訳者には、圧倒的に女性が多いことの現れだ。本校で通訳トレーニングを受講している受講生の9割は女性だし、昔、私は大学の通訳演習の授業を担当していたが、その時も学生の8割近くは女の子たちだった。

古いことわざに、Foxes are all tail and women all tongue. というのがある。「キツネは尻尾から成っている。女性は舌から成っている」。英語の tongue には「舌」という意味の他に「言葉」「話す能力」という意味もある。女性は単におしゃべり好き、というだけではなく、話す能力に秀でている、とも読み取れる。もちろん個人差はある。 アメリカで実施されている小学生を対象とした英語 (国語) 試験でも、女子児童のほうが男子児童よりも常に平均点が上。日米を問わず、女性のほうが、一般的に、言語能力が高いと言える。これは通訳技能を学ぶ者にとって重要な条件になる。 それに私の経験から言って、女性のほうが細かいことをコツコツとよく勉強するように思う。

通訳者にとって、通訳をする内容について詳しく下調べをしたり専門的な単語を覚えたりすることは、すこぶる大切だ。いくら外国語運用能力があっても、こういう準備をサボる通訳者はプロとしては失格である。 アメリカでは、女性通訳者の割合は6割くらいだから、日本の通訳業界は明らかに女性優位だ。私は有能なプロの女性通訳者を少なからず存じ上げているが、男性でプロをめざす人がもう少し増えてもいいのではないだろうか。男にも tongue はあるのだから。

 

  文化としての言論の自由 (Freedom of expression as part of culture)

フランスのパリ中心部にある週刊紙「シャルリー・エブド」(Charlie Hebdo) がテロ攻撃を受けて12人が殺害された。そして容疑者たちも警察の特殊部隊に射殺された。痛ましい事件だ。イスラム教の預言者ムハンマドを風刺した風刺画 (satirical cartoon) が事件の背景にある。1789年のフランス革命以来、フランスの政治・世相の風刺 (satire) は伝統文化である。マリー・アントワネットも風刺された。

風刺は言論の自由と深く関わる。フランスの哲学者ヴォルテールことフランソワ・マリー・アルエの言論の自由を尊重する言葉は有名だ。

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

(I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it)

言論の自由は民主主義の根幹だと言われる。そして民主主義こそ絶対的な善である、という考え方が普遍的なように思われている。しかし、世界の異なる文化圏においては、そもそもこういう姿勢に疑問を抱く人たちがいることもまた真実である。

話をフランスの今回の惨事に戻すと、言論の自由の尊重は大切なフランスの文化的価値であるのは十分理解できる。ただ他国の文化的、宗教的価値にも配慮が必要だろう。そうでなければ、フランスは、英語で言う ethnocentrism (自民族中心主義) を声高に唱えているにすぎない。私は決して今回のようなテロ行為を容認するものではない。ただ、公正に言って「宗教」という民族の、ひいては、個人の大切な価値観を扱うときは、慎重に扱うべきだし、信仰者が不愉快な思いをせざるを得ない表現は慎むべきだ。それが大人の人間の慎み、というものだ。

私はカトリック信者だが、今のカトリック教会がやっていることに全面的に賛同しているわけではない。従って、かつてシャルリー・エブド誌がカトリックの象徴である教皇 (Pope) を風刺した意図が理解できる。が、信仰の質の違いで、そのような風刺を受け入れられない人たちには、それが精神的なテロ攻撃のように感じられる虞もメディアは肝に銘じておく必要がある。憎しみは新たな憎しみを生み出す。憎しみの醸成を防ぐ慎みは、ひとつの愛の行為といえる。

 

交渉の通訳

いろいろな通訳の中でも交渉の通訳というのはひときわ難しい。交渉 (negotiation) と一口に言っても、政府間の交渉もあれば、民間、業界レベルのものもあり、個々の企業レベルのものもある。通訳者は交渉の種類を問わず、言葉だけに関わればいいようなものだが、適切に通訳するには、やはりかなりの程度、交渉内容についての知識が必要になる。ある交渉に立ち至るまでの経緯とか、背景など、その内容面を把握した上ではじめて、通訳者はその交渉にふさわしい的確な言葉を判断できる。

 交渉の場で、発言者の言葉を英語や日本語に通訳する時には、発言者のオリジナルが何であったのか、通訳した訳語は何であったのかを区別して記憶しておかないと、微妙なところで話が噛み合ない事態になる。つまり、記憶とメモが緻密でなければならない。交渉の逐次通訳の場合、どれだけ正確に発言内容が記憶できるか、正しくメモがとれるかで通訳の成否が決まる。ひいては交渉の行方に重大な影響を及ぼす。通訳の技術としては、私たちの言葉を使えば、リテンション (記憶) とメモ化の訓練をしっかり積んでおかないと、通訳が却って邪魔になる。

 たとえば、日本人の発言者が「(流通に関する) 全ての障壁を撤廃する」と言ったのを、eliminate all the barriers と英語に通訳したとする。次に同じ発言を、remove all the obstacles というふうに訳せば、明らかにニュアンスが異なることになる。英語のeliminate は remove より意味が強いし、barriers は obstacles より意味が弱くなる。後でアメリカ人発言者が、通訳された英語とは違う impediments という単語を使ったとすると、「障壁」をめぐってbarriers, obstacles, impediments と三通りの英語が飛び交うことになり、元々「障壁」という言葉がどの程度の意味で使われていたのか判然としなくなる。

 言葉は何通りにも訳せるものが多いが、発言者のこの意図では、この文脈ではこの訳でなくてはならないという種類のものがある。日本人通訳者なので英語のそんな微妙なニュアンスまで知りません、はプロとして言い訳にならない。

記憶力の脆弱さから、メモの荒さから、訳語の不適切さから、交渉に無駄な混乱を招いてしまうことがないように、常に訓練を怠らず、準備に手を抜かないことが通訳の依頼者への最良のサービスになる。

 

ル・モ・ジュスを求めて

 稲盛記念会館で国際京都学シンポジウムが開催されて、私が代表を務めているイクサス・インターナショナルから通訳者を2名派遣した。公開シンポジウムだったので、私も通訳事業部のコーディネーターといっしょにシンポジウムに参加して、二人の通訳者の通訳を直に聴いた。私はこれまでに十分通訳という仕事をしてきたと思っていることもあり、できるだけ後進の若い人たちに通訳の現場に行ってもらうことにしている。通訳訓練の課程を一通り終えた人たちにとって現場の経験が最高の教室になるからだ。

通訳現場での我々通訳者の理想は、フランス語を借りれば、le mot juste (ル・モ・ジュス)、 的確無比な訳語で通訳ができることである。横のものを縦にするだけの通訳ではプロとは言えない。プロならば、ただ単に字義どおりの直訳で能事おわれりとせずに、内容を正確に伝えようと心をくばらなければならない。多くの場合、高校生がやらされる英文和訳や英作文のような直訳では、ことを明らかにするよりは、むしろ混乱させかねない。

日本語を自在に操れる人並みすぐれた母語への造詣と、英語なら英語という外国語を―多少日本人のなまりがあろうとー運用面では母国語並みに使える語学力が必要だ。が、それだけでさまざまな分野の通訳が務まるわけではない。的確な通訳は、話題となっている事柄に関する正確な知識が背景として要る。くわえて、通訳はつまるところ語り芸である。通訳者は聞き取りやすい声の出し方、耳で聞いてわかりやすい話し方を心得ている必要がある。

それは高嶺の花、と言われそうだ。

が、何事をなすにも理想はあったほうがいい。志が高くなる。プロと呼ばれる通訳者として、私はル・モ・ジュスを求めてやまない。

 

プロの気迫

懇意にしている大学の先生からの依頼で、ある学会の同時通訳をした。使用言語は英、日、独。私と友人の会議通訳者が日英・英日を担当し、ドイツ語は初めてお目にかかるかなり年配の通訳者、お一人だった。エイジェンシーの方ですか、フリーランスの方ですか、とお尋ねすると、「これは私の道楽です」とおっしゃる。「道楽?で同時通訳か」とあまりいい気がしなかった。が、会議が始まるとドイツ人の学者の専門的な発言を言いよどむことなく、実にわかりやすく同時通訳された。その25分間の気迫は紛れもなく場数を踏んだプロの気迫だった。剣客の気迫だ。どこで同時通訳の修行をされたのかは不明のままだが、知人の話では、ドイツの大学で哲学博士と工学博士の学位を取得されていて、今は「隠居暮らし」をなさっているという。通訳ブースを出た後は、剣客の気迫は失せ、おだやかな表情になられた。いい通訳をみせてもらった、と邂逅に感謝した。通訳の名人は意外なところにおられるのかもしれない。秘すれば花。人に見せびらかし、喧伝する芸ではない。

 

素人 (しろ) と玄人 (くろ)

私は篠田桃紅さんの書が好きだ。篠田さんの「玄という色」という文章にこうある。

「ほんとうのくろ(玄)は真っ黒ではない、という考え方が、私にはたいそう気に入る。一歩手前でやめる、という、そのあと一歩に無限のはたらきを残し、それはわが手のなすところではなく…とにかく人間のはかり知れない大きな手にゆだねる、そういう考え方がこのましい。このましいが、一歩手前がまことにむつかしい」

私は通訳者なので通訳という芸に結びつけて考えてしまう。言葉は商売道具。日本語でも英語でも闊達に話せば、勢いがついて「訳しすぎる」ことがある。素人 (しろうと) の通訳者は舌足らずの訳になりがちだ。白すぎる。が、玄人 (くろうと) は言葉が達者であればあるほど、訳が真っ黒になることがある。篠田さんは言う。ほんとうのくろ(玄)は真っ黒ではない、と。一歩手前でやめる。確かに、書の芸と通じる。「訳し過ぎ」は危ない。冷静沈着に一歩手前でとどまる。私の通訳の師匠はそういう抑制ある通訳をされた。「このましいが、一歩手前がまことにむつかしい」。

 

通訳者と国家試験

司法通訳に携わる通訳者には弁護士のような国家試験がない。私も弁護士さんの通訳をすることがある。弁護士さんが英語を話す外国人容疑者と接見する時にメモを取りながら逐次通訳する。長い時には2時間に及ぶことがある。私はプロとしてこの種の通訳の際に聞いたことは墓場まで持って行くし、常に中立の立場で正確に通訳するように努める。弁護士さんと同様に守秘義務はあるし、然るべき倫理規定も伴う。が、こういう通訳を行う者に国が定めた免許はない。これは実におかしなことである。

一般的に日本では通訳という仕事はかなり曖昧にしか定義されていないし、医師や弁護士のように免許が必要なわけでもない。問題であるが、今のところ国は通訳を行なう者を対象とした国家試験を設けるつもりはなさそうだ。 ならば通訳者が自らを律する他ない。外国語が話せるというだけで、専門的な訓練も受けずに、軽々しく通訳を引き受けるべきではないし、依頼するべきでもない。 司法や医療の通訳は、誤訳が人の人生を狂わせることもある。ヨーロッパ諸国のように、せめて職業として通訳をする者には、国レベルで基準を設けるのが良識というものである。

 

同時通訳の実演

簡易的なヘッドセットを使って同時通訳を受講生に聴かせる。同時通訳という芸で恐ろしのは「間」の取り方だ。間が魔になる。発言者の発言と通訳に「間」がないと「間抜け」になり、実に聞き苦しい。「間」が長いと、「間延び」して聞き手を苛立たせる。また発言者の行間という「間」を読み取り、瞬時に判断し、「冗談」ならば、笑いに「間に合う」訳し方が必要になる。通訳とは実に奥の深い語り芸である。仕事の現場同様、クラスでの通訳のデモンストレーションはその場で現場と同じように緊張感をもって行なう。失敗すれば、私のしくじりもまた訓練生の手本になる、という覚悟で臨む。ちなみに私は同時通訳でも簡単なメモを取りながら訳す。あとで何をどうメモに取ったか訓練生に見せる。私のメモもまた、いい意味でも悪い意味でも、手本になる。

 

経済的刺激とプロの誇り

25年近く前に私が通訳という仕事にかぶりついたのは、好きということもあるが、まずは食うため、というきわめて現実的で切実な理由からだった。自画自賛に聞こえるとみっともないが、通訳者として大きな仕事をしていける能力と資質があると確信していた(その後何度もプロの厳しさを思い知らされたが)。プロとして誠実に仕事をする、立派に仕事をする、だから通訳者は高い報酬を取るべきだ、とその頃からそして今も思っている。「何か英語を使って仕事をしたいのですが…」と漠然とした気持ちで職探しをしている人がいる。

「私にでもできる通訳はありませんか?お金は今はそんなに頂けなくていいんです」と謙虚 (?) におっしゃる。 が、そういう方はまずモノにはならない。自信があるなら、技量があるなら、報酬を求めればいい。経済的刺激は良い成果を生み出す。自分を安く売るな、と言いたい。それがプロの誇りだ。一人前の通訳者になるには、時間と努力と金がかかる。オーケストラのバイオリニストと同じだ。生意気なようだが、私は納得のいかない報酬では仕事はしない。が、お引き受けした限りは、一命にかえてもやり抜く。それがプロの誠実さだと思う。

 

通訳者と「英会話」力

英語圏国からの帰国子女たちは確かに語学力という一面では、通訳者になるには有利だ、と言える。以前、大学の通訳コースで教えていた頃、英米人並みに、自然に、いわゆる「英会話」のできる帰国生たちが私の授業を受講していた。 しかし、通訳という仕事を考えると、そういう会話力は絶対条件ではない。

私の先輩通訳者のTさんは、留学経験のない方で、自分の英語は「ジャパニーズ・イングリッシュ」とはばかることなくおっしゃる。発音や英会話はとても帰国子女には敵わないと告白される。が、専門性の高い会議や交渉でのTさんの通訳者としての仕事ぶりは見事である。ネイティブのような英会話ができなくても構わない。「国産通訳者」という現実を受け入れ、どういう分野でなら通訳者として貢献できるのかを考え、専門知識を増やし、日英両語の表現力を磨いてこられたTさんの姿勢から、自分の弱みを恥じず、自分の強みを活かしてキャリアを形成してゆくプロとしての努力と工夫がうかがえる。 もっと広く言えば、外国語を上達させるのに帰国子女である必要はなく、劣等感を持つ必要もない。自分にしかできないことに対する「黄金のプライド」を持てばいい。

 

通訳者の性癖

「性癖」。簡単に言えば「クセ」。どんな職業にも仕事に伴う「クセ」のような習慣がある。通訳をなりわいとしている私の「クセ」のひとつに英語に訳しにくそうな日本語に出くわすと、書き留めておくクセがある。なんとか適訳に近い英語表現を探し、メモに書き留めておく。

最近では、安倍首相の外交姿勢を表す「地球儀外交」「地球儀を俯瞰する外交」という言葉をよく見かけるし、耳にする。さて、通訳している時に瞬時に訳すには…と訳を考える。これは「外交は地球儀を眺めるように世界全体を俯瞰(ふかん)して、自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった、基本的価値に立脚し、戦略的な外交を展開していくのが基本であります」という首相の発言に由来する。 そういえば、日本で発行されている英字新聞は、「地球儀外交」をthe diplomacy which emphasizes a panoramic perspective of the world と表していた。Active diplomacy based on the goal of enhancing relationships with a wide range of countries という表現も見かけたが、訳としては長過ぎる。同時通訳なら、Globe diplomacy と短く訳すしかない。

いずれにしても、英語に訳しにくい日本語は事前にある程度、文脈を考えて、訳語をいくつか用意しておくと、スムーズな通訳ができる。これは通訳に限らず、英語でなにか日本的な話題を語るとき、役に立つ備えである。自分なりの表現メモを作るクセをつけることをお勧めする。

 

リスニング力

通訳の訓練といえば、まずは「訳す」練習、と思う人が多い。が、実は発話を正確に聴き取れる訓練が肝要だ。通訳という仕事は、まずは聴き取りから始まる。聴解能力を鍛える。聴き取れない発話は、理解できないし、訳せない。通訳者はさまざまな英語を聴かなければならない。英米人たちが話す英語だけではない。最近ではアジアのいろいろな国々の人たちも英語を話す。当然、お国なまりもあり、個人のしゃべり癖もある。「世界の英語たち (World Englishes)」に親しむ必要が急速に増している。イクサス通訳スクールの私の授業には、時々外国人ゲストを迎えて、私がインタビューをする。その時は、いつも相手の発話をメモに取りながら聴き、質問をぶつける。相手の真意を聞き漏らさないようにする。ここでも必要なのは、リスニング力だ。

 

リーディングのすすめ

大手の英会話学校が投じる広告費から考えても、英会話がかなり大きな市場であることがわかる。そしてマーケットの対象は大方が初心者だ。それだけ英語を話せるようになることに関心を持っている人が多いということである。こういう学校にまじめに通うことで、簡単な会話はできるようになるだろう。が、伸び悩みを訴える人が少なからずいる。問題は、単語や表現が会話練習だけではなかなか増えないため、「大人レベルの会話」をするだけのリスニング力や自己表現力が停滞してしまう。成人学習者には大変もどかしい状態になる。

この停滞を解消するには、英語をできるだけたくさん読むことである。お勧めは、まとまった本を英語で一冊最後まで完読する習慣をつけることだ。英語でまとまった読書をすることで、英語特有の論理がわかるようになるし、単語・表現とあわせて知識が増える。頭を使って習得したことは忘れない。英語の読書に慣れていない人は、英米の有名な小説などがやさしい英語で書き直されたPenguin Readers がいい。レベル別に分けられているので、自分にあうレベルから始められる。英語の本を1冊きちんと読み終えることを続けると、英語接触量が増えるし、自信も増してくる。リーディングはスピーキングに多大な効果があるとおわかり頂けると思う。お試しあれ。

 

「シャドーイング」はそれほど効果的なのか?

シャドーイングとは英語のスピーチなどを使い 、英単語を数語ほど聞いてすぐに、影 (shadow) のように後から追いかけて同じ内容を口に出す練習方法で、「聞きながら話す」という作業ですので、同時通訳の基本練習によく使われます。 確かに、lip laziness (唇の筋肉の衰え)を防止する程度の効果はあると思うが、英語の理解力を向上させるのに効果的かといえば、私は懐疑的だ。 シャドーイングを1日に3時間やれ、という英語の指導者がいるそうだが、私ならまず時間的に無理があるし、そんなオウムのような真似 (parroting) は退屈の何物でもなく、言葉よりあくびがでてくるだろう。

そんな暇があれば、ビジネスパースンなら the Financial Times, the Economistといった経済雑誌や、一般的なものならTIME 誌や NEWSWEEK 誌を出来るだけたくさん読む方がずっと効果的だ。長い記事を読みながら、頭の中で情報を整理して、ひとつの記事を読み終えれば内容について「整理メモ」を日本語でもいいので作成するようにする。「整理メモ」が増えていくにつれて、語彙も増え、知識も増してくる。成人学習者は、オウムではなく人間として頭を使って知識を広げることで確実にリスニング力も向上する。

 

「音読」の落とし穴

音読とは英語で書かれた文章をひたすら声に出して読む、という練習です。それ用のテキストなんかも出版されている。先日、イクサス通訳スクールにただひたすら音読で英語を習得 (?) したという方が通訳のレベルチェックを受けに来られた。 日英の通訳をやってもらったとき、英語で何を言っていられるのか英語がわからない。英語の音になっていない。間違った英語の発音でずっと音読されていたわけだ。

日本でも小学生が国語の教科書を「音読」することがある。そのとき、先生や親はおかしな「発音」は直すのが通例。やはりわかりやすい英語の発音の習得には、間違いを正してくれる人が要る。アメリカ英語、イギリス英語の如何を問わず、正しい英語の発音はやはり、モデルを決めて習得する練習が不可欠だ。日本人の英語=カタカナでは、悲しいかな、通じない。日本の書店には、うずたかく英語上達のための本が積まれている。大切なことは、簡単な上達法はないと認め、英語力が本当に必要ならば、さまざまな角度から練習を重ねることだ。

 

「聞く (hear)」と「聴く(listen)」

「聞き流し」では英語聴解力の向上には絶対つながらない。人間の集中力は拡散するように出来ている。だから、ひとつのことに注意を集中するという行為は訓練が必要になる。イクサス通訳スクールでは、通訳クラス受講に際して、適切なクラスで学んでもらう為に、レベルチェックを設けている。その中に「日本語を聴き取る」というテストがある。40秒ほどの簡単な話を日本語でメモを取らずに聴いてもらい、その後すぐに聴いた通りに受験者に話してもらう。ところが、聴いたこと全てを正確に再生できる人は10人に1人もいない。自分で話を適当にすり替えてしまう人がいる。人間は自分の都合のいいように解釈してしまう証拠かも知れない。

「聴き取る」ということは、聴いた内容を正しく「記憶」できていなければならない。日本語でもこういう「聞き流し」でない「聴き取り」は訓練をしない限り難しい。試しに、誰かに日本語でまとまった話を1分近くしゃべってもらって、どれくらい正確に再生できるか試してみると難しさがわかる。 その「聴き取り」が外国語になると、難度は当然高くなる。集中力を高め、話の論旨を追いながら、頭の中で情報を整理していくという作業が求められる。逆に言えば、こういう頭を使う「聴き取り」練習を続けて行なえば、リスニング力は個人によって程度差はあるにしても、必ず向上する。技能の習得に安直な方法はない。

 

「国語力」という大切な土壌

幼い子供に英語を習わせれば、上達する、という考え方はかなり安易にすぎると思う。日本という日常的に英語が話されていない社会環境は、同じアジアでもシンガポールなどとは違う。子供は言葉を覚えるのも早いが、忘れるのも早い。まして習った言葉を毎日の生活の中で使えない環境にあっては、日本語のようにはいかない。幼稚園や小学校というのは、母国語の日本語をしっかり学習し、身につける教育を行なう場所である。

外国語の表現力が母国語の表現力を上回るということは絶対ない。日本語で相手に理解されるように工夫して自己表現ができないのに、英語ではできるなんてことはあり得ない。 最近、社内での会議を英語で行なっている会社もある。が、もし会議の参加者が全員、日本人だとすれば英語で会議を進める理由があるだろうか?

社員の半数が英語話者という企業であれば、そこには必然的に英語を使う環境があるわけだから、日本人社員の英語学習には高い動機付けが生まれる。しかし、ここでもやはり日本語で表現できない思想や意見は、外国語になったとたんに達意に表現できるということは、普通の日本人には望めない。 英語を学ぶ際には、「動機」と「必要性」がすこぶる大事な要因となります。また、貧弱な国語力という土壌に、英語の苗木を植えたとしてもたくましい樹木には成長しない。

 

「バイリンガル」とはどんな人か?

日本語には「帰国子女」という言葉がある。「子」が「息」、「女」が「娘」を表す。なんともわかりにくい言葉だ。英語には returnee という単語があるが、あまり日常で使われる言葉ではない。外地任務を終えた帰還兵のような感じがする。 また、「帰国子女」=「バイリンガル」という勝手な思い込みが日本にはあるようだ。「彼女はアメリカからの帰国子女だから英語はペラペラだろう」、という具合に。

イクサス通訳スクールにもこの「帰国子女」と呼ばれている人たちが通訳のレベルチェックを受けに来られることがある。プロの通訳者になれるものと堅く信じて 来られる。が、テストをしてみると、まるでアメリカ人の高校生が雑談をしているような英語しか話せない。日本語は出来の悪い中学生並み。「勇み足」という言葉の意味をご存じない方もいた。

ベテラン通訳者の長井鞠子さんはご著書『伝える極意』の中で、バイリンガルの定義をこのように書いておられます。

「ふたつの言語をどこまで使いこなせばバイリンガルといえるのでしょうか。わたしは、ニューヨーク・タイムズの社説が読めて書けて、日本経済新聞の社説が読めて書けることが英語と日本語のバイリンガルの定義だと思っています」(同書・52p)

A balanced bilingual (2言語の語学力が高いレベルでバランスの取れている人)は、実際はほんとうに少ない。長井さんの定義を「高嶺の花」と思わずに、国語でも英語でも読み書きの訓練を怠らないことが、日英両語の習得では相乗効果が生まれることは実証されている。

 

熟成の時間

「3年も英語の勉強をしているのに思うように上達しません」と嘆かれる人がおられる。1日でも早く上達したい!という気持ちはよくわかる。本当にうまくなるには時間がかかる、何事にも。 ウイスキーの成長についてお話しすると、モルト原酒は、樽によって一番うまくなる年数が違う。12年で熟成の頂点を迎えるもの、20年以上時間をかけて、じっくり円熟味を獲得する原酒もある。 特に通訳技能という専門的な技の習得となれば、1年や2年ではとてもうまくなれない。

何かの才能とは、みずからの熟成を焦らず、時間をかけて紆余曲折の中で、「継続できる力」であると思う。「うまくなりたいけど、うまくなれない」とお悩みの方。うまいウイスキー を飲みながら「成熟の時間」を考えてみられたらどうだろう(もしお酒がお好きなら)。

 

プロの力量

先日はご招待を受けて、久しぶりにさだまさしさんのコンサートへ行った。大阪交響楽団を背後にして歌う彼は本当に音楽のプロであることを実感させてくれる。オーケストラの演奏と彼のギターの演奏からは見事なハーモニーが生み出される。楽屋にいるときのさださんは小柄な人だ。が、ステージに立つととても大きく見える。それは彼が歌うプロだからだ。私も通訳をするプロとして身が引き締まる思いになる。自分の生業の中で、人はどれだけ大きく見えるかが、その人の力量の現れと言えるだろう。

 

なんで英語やるの?

中学校の学習指導要領で外国語が必修になるのは2002年のこと。ついこの前までは制度上は選択科目に過ぎなかった。戦後初期は名実ともに選択科目だった英語が「事実上の必修」となったのは1950年代から60年代にかけて、「3年間のうち一度は学ぶ」から「すべての生徒が3年間学ぶ」ようになった。 英語が「選択科目」になっていた可能性があったのだ。

学びたい学生だけに英語を学ばせる、という選択肢は一見、理想的なように思える。が、中学生の段階で、この子には将来英語が必要、この子には不要とだれが選別できるだろうか?大人になって英語を学ぶ必要に迫られたとき、やはり中学校や高校で学んだ英語が基礎になることは事実だ。大人になってからABCから学ぶとなると、途方もない時間と労力が要る。逆に言えば、中高で大人になったときに英語学習が必要になったとき、学習を再開しやすいように「文法の知識」「英文を読み、書きできる基礎力」をしっかりと養成するべきである。

 

英語ネイティブの英語力はどのくらい?

この問いかけは、日本語ネイティブ (日本人) の国語力はどれくらい?という質問と同じで、人それぞれということになるだろう。では、これをお読みの皆さんは、明日から外国人に日本語だけで日本語を教えなさい、と言いつけられたとしたら、どれくらい教えられるだろうか?そもそも教えられるだろうか? 本校にも時々、履歴書をもって、あちこちで英語を教えてきた経験があるので、クラスを持たせてもらえないか?と英語ネイティブの人たちが訪ねてくることがある。アポも取らずに突然来る人はその場でお断り。履歴書を送りつけてきて、私は日本語もできると電話でおっしゃるが、ほどんど、おぼつかない日本語だ。3年も日本に滞在していて、語学の教師をしているのなら、言葉を学ぶ才能がないことを証明しているのだから、そういう人に英語を教える資格はない。

もちろん、英語ネイティブの中にも日本語の読み書きも達者で、英語教師としても優秀な人たちをたくさん知っている。彼らに共通していることは、読書家で学識 (学歴ではないですよ)があることだ。自分の個人的な言語体験だけから、日本人学習者の英語を間違っている、と断じない慎重さがある。その態度はさまざまな英文に触れてきた幅広い読書経験に裏打ちされた知恵といえる。 英語の教師というものは、学習者にとってはお手本。そのお手本が、自分のひどいなまりを矯正しようともせず、書物などほとんど読むこともなく、ただお国でしゃべっていたように英語を話しているだけでプロとして授業料をとっている英語ネイティブは、国語力も学識もお粗末そのもの。この手の人のことを日本語では「厚顔無恥」の徒という。学習者を楽しませればいいというものではない。

 

「正しい」or「間違い」

ある英語表現についてアメリカ人の先生には正しいと言われたのにイギリス人の先生には「間違い」だと指摘された、と困惑気味に受講生に尋ねられることがある。文法の微妙な点に関しては確かに英米で意見が分かれることがある。それに当然個人差が存在する。文法とは、簡単に言えば、一つの社会の交通ルールのようなもの。このルールの基本は知らないと、交通は乱れ、事故が多発するだろう。

外国語として英語を学ぶ場合、文法の基本は必ず学ぶべきだ。日本人にとってはいわゆる「学校文法」と呼ばれる英文法でいいとおもう。その基礎を知った上で、英語話者とコミュニケーションを取りながら「実例」に接すれば、興味深い発見がたくさんある。文法的にはおかしくても実際の会話ではルールが破られることもある。 「どう私って賢いでしょう?」という場合、I’m smart, aren’t I?という言い方が日常レベルでは用いられている。I’m…, am I not? はかなりフォーマルな言い方だ。そういう「実例」を収集していくことで、英語の「ありのままの姿」に気づいてくる。その大切な「気づき」の土台となるは、やはり「学校文法」なのだ。

 

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